2012年3月16日金曜日

投稿:中国旅の感想 相澤真弓





旅の紀行文をというので、感想文のような?ものを書きました。もしも文中、どなたかに失礼がありましたら、お許し下さいませ。

さて、私は、松本日中友好協会の旅へ、最初に参加したのは、2004年の「桂林~上海」でした。
それからは毎年のように、一般参加者として、主人に連れて行ってもらっております。毎回、廊坊市への表敬訪問が優先され、それからの観光ですので、今回も、それに葫蘆島市が加わり、いつもと同じパターンでした。
これまで、「西安~敦煌」・「北京~フフホト」・「黄山~景徳鎮」その他に、病院同士のお付き合いとして、石家荘市の河北医科大学、天津医科大学、天津市の泰達国際心血管病院、そして廊坊市人民医院を、何度か訪れています。今年だけで、中国訪問は、2度目でした。


今回、初めて葫蘆島市を訪れたのですが、接した人々の柔和なことに先ず驚きました。どの都市よりも、穏やかな優しい笑顔に出会いました。レストランのウエートレスもホテルマンも、小学校の先生方も生徒達も、皆、ニコっとしてくれました。こういう優しそうな人達の先代達なら、60年前の満州からの引き上げて来た大勢の日本人達にも、それなりの情を与えてくれたのでは?と想像しました。 当時のここの住民も、日本人引き上げ者も、食料は乏しかったでしょう。 2年間、着の身着のままで、これ以上、汚くはなれなかったと、宮尾登美子の自伝的小説に書かれていましたし、使役という労働で、わずかばかりの食料を手に入れ、不消化な高粱粥で、命を繋いだと・・。モラルなどなく、過酷状況にて、帰国船を待った、と、小説にありました。不勉強ながら、今回の旅が葫蘆島市であると聞いても、ピンと来ず、まさか、小説のその地(錦州)を訪れることになるとは、我ながら驚きました。
そして、この荒涼とした海岸沿いの石碑に、ここで約105万人の人達がどんなに望郷の念を持ったかと想像しました。運良く、生きて帰れた105万の人達の陰には、おそらくその倍以上の人達が、そこまで辿り着けずに亡くなっていることを思い、その頃の歴史を省みる思いでした。 105万人というと、松本市周辺の40万人の人口と比べてみれば、いかに大勢の人達の移動であったか、と思います。

今回のツアーにも、当時の辛酸を経験された方が数名、参加されており、どんな思いだったでしょうか? 主人と私との縁を繋いで下さった方も、ハルピンからの引き上げ者でした。あちらで女児を亡くして、晩年、墓を探しにハルピンへ行ったが、ついに探せなかったと、生前仰っていました。もう数年前に亡くなられてしまいましたので、いつどこから引き上げて来られたかは定かではありません。しかし、この海を渡ったことに、間違いありません。
立派な石碑を訪れ、写真に収め、帰国後、家族・友人・知人に話しても誰一人、そういう事実をもう知りません。私達の世代ですら、知ってる人達が少なくなってしまった戦後60年です。 こういうツアーで、日本政府の間違った
戦略の陰で、犠牲になった人達の苦難を強いられた場所を、見入る機会を得たことに意義を感じました。 歴史の一点に過ぎませんが、こういう場所を訪れることは、その歴史の前後も否応なしに想像することになります。
学校教育では、その頃のことを、取り上げていないようですので、知らない人達に、折に触れ、伝えて行きたいと思います。

また、一般参加者として、廊坊市と葫蘆島市とを、どちらを姉妹都市にするかという経緯については、知る由もありません。(一般市民に知ってる人はいませんので。)しかし、第2実験小学校での利発な生徒達のお出迎えは、とても感動的でした。廊坊市でも、小学校・中学校を訪問したことがありますが、生徒達のお出迎えは、ありませんでした。土曜日のお休みの日なのに、選ばれた子供達の、はつらつとした笑顔は嬉しいものでした。  (子供達は、万国共通、可愛いです。)歓迎のされ方が素晴らしかったのは、これまで根気良く、開智小学校との交流を重ねて来た成果であろうと、牛山さん達の努力を感じる所でした。


歴史的な興城・九門口・老龍頭等々、それらは素晴らしかったのですが、中国の発展には、毎回、どこかを訪れる度、その活力を感じます。マンションの建設ラッシュで、バブルのようですが、弾けないことを祈りつつ、世界の経済を牽引している13億人の中国人は、恐るべし!です。元気のない日本へ、エールを貰いたいものです。  

尚、皆さんと別行動になった帰りの天津行きの新幹線は、6人掛けコンパートメントの2等車だったのかと思います。 狭くて、足の置き場に困り、正直、かなり疲れを感じました。瀋陽からの現地人夫婦と友人の3人が、目の前に座り、「日本人ですか?」と声を掛けてくれました。昼ごはんには、カップ麺とゆで卵と真空パック入りのキムチを、食べていました。彼らが食べ終わる頃、私達も、負けずに、車内販売の駅弁に挑戦しました。その時は、彼らは遠慮をしてくれて、列車の廊下で、私達が食べ終わるのを待っていてくれました。こういう優しさにも、感動しました。駅弁は、う~~~ん、美味しくもなく、不味くもなく、まぁいっか、でした。コンビニの弁当のように、ご飯が1/3、3種類のおかずが入っていて、入れ物ごと、温めてあり、暖かいご飯には、有り難かったです。
駅弁には、カップスープが付いていて、車内にお湯が出るので、各自、カップにお湯を入れていました。トマトと卵とパクチ入りスープで、スープの方は、美味でした。 
駅弁の賞味期限がどうなってるのかは、見ない方が良さそうですが・・・。二華院さんの話では、全国どこも同じ駅弁だそうで、日本のように、ご当地グルメが無い、のは・・・・ちょっと残念でしょうか。

楽しい旅が出来ましたのは、皆さんと、通訳の二華院さんのお陰だったと、感謝しております。
主人の体調が良い時に、また皆さんとご一緒に、中国へ行きたいです。  
皆様、どうかお元気で!
(相澤真弓)