2012年3月18日日曜日

寄稿:30周年記念訪中団 大地のロマン感動の旅 高山浩一


 松本日中友好協会創立30周年記念訪中団に参加し大地のロマンを満喫しました。この訪中は平成23年11月3日から7日まで「民間交流のルーツを訪ねて」をテーマに行われ、廊坊市と葫蘆島市、そして天津市を訪問しました。

 友好都市廊坊市は、5年ぶりの訪問でその発展ぶりは目を見張るものがありました。地方から移住する方でも北京市に住める人は制限されているので、隣の同市に住居を持ち北京に仕事に行く方も多いようです。「北京」を冠した大学名を持つ学校もたくさんあり学術都市でもあります。

 私は、長年の夢で人民服を着て中国を旅してみたいということがあり今回交流行事の際には、人民服を着用させていただきました。この年は辛亥革命100年を記念し、中国全土で革命家中山孫文をたたえる行事があったり、映画『1911』が世界で封切されています。孫文に学べと革命以来着用されていた人民服(中山服)を着ている人は、いまや皆無です。私も、変人と思われるのを覚悟で以前友人から頂いた人民服をもっていきましたが、廊坊市人民政府では王愛民市長が親指を立て、何度も「カッコいい!」と言っていただきました。虚飾を捨てた清貧な制服を国家全員で着用した時代は、貧富の差が小さく人間性で人は評価された時代かと思います。いまや私服の全盛。貧富の差が開き、大富豪と庶民との格差による暴動も各地で起きているようです。アメリカ合衆国のように1%の人が80%の財産を支配するというような国になってはおしまいです。今のうちに、制度を立て直し、格差是正し、平等な競争社会を健全に築いていってほしいものです。そのためには人民服を着た時代の「精神」を着用することが大事かと思います。
 さて、交流都市葫蘆島市は、松本市との友好都市提携を望み1992年の国宝松本城400年まつり(同時開催信州博覧会)に副市長が来松するなど、互いに民間交流を重ね、機運が盛り上がった1994年と、提携結果に対してのご報告をした1995年の2回訪問して以来16年半ぶりの訪問となります。松本市としてはより北京に近い都市ということで廊坊市を議会で選定し、その後友好都市提携の申し込みに中国にでかけ提携したことは官の判断として尊重しますし、廊坊市も素晴らしい都市です。それでも、これまでの民間交流の経緯をまったく白紙とされたことに対し、市民が反対集会を開いている中、強行議決されたことは官民のしこりを残しました。当時、有賀市長が1期目の出来事で、議会も前市長派も多く、議会も紛糾した中での採決をせざるを得ず、官民と日中の狭間で有賀市長自身も非常に心を痛められたのではないかと察します。以来、松本日中友好協会内部も廊坊派と葫蘆島派で二分化し、それぞれの都市への訪中団を組む組まないで、ギクシャクしていた事実も確かにあります。途中市長も変わったり、市と協会との関係もいろいろと複雑な面もありましたが、友好をうたっている協会だけに、当時の葫蘆島市長の涙ながらに宣言していただいた「形式ではない心と心の交流」を内外ともに地道に築いていくことがこれからも大事かと存じます。今回は、相澤会長と穂苅前会長のお二人が2都市を訪問し、この16年を総括する意味合いも兼ね有意義な訪中であったかと存じます。
 葫蘆島市は、世界遺産九門口を有する観光地。明代からの歴史を残す城郭都市興城も世界遺産候補として擁しています。海洋リゾート開発も進み、秦の始皇帝の離宮の再現も将来計画されています。16年前は、見渡す限り周りに何もなく万家賓館という市の招待所が1軒ぽつんと殺風景な中に佇んでいて、ここに宿泊するんですか、と心細かった地もいつの間にか大きな街になっていたりして驚いたものです。市庁舎前の大通り(一時は名誉なことに松本大街と地名になっていたこともあります)もホテルやビルが林立し街として大発展していて見違えました。
 17年前に初めて葫蘆島市第二実験(龍湾)小学校を訪れた際に、踊りの女の子を撮影した私の写真を今回の訪中団名簿の表紙に使っていただきました。小学校職員の方たち主催歓迎宴の中で、この生徒は今どこにいるんだろうという話になり、先生たちに追跡していただきました。すると今28歳のレデイとして成長し北京の雑誌記者として活躍されているということが分かり、なんと宴会の最中に電話でお話できました。中国というところは、人口は巨大ですが、友人同士のつながりがしっかりしているのでこんな芸当ができるんだなあと大変感動しました。
 どこまでもおおらかで優しい中国人民との今後の友好を大事にし、この廊坊市と葫蘆島市をはじめとして多くの中国の方々と心の友好を今後もしていけたら幸いです。
(高山浩一)