2012年3月24日土曜日

寄稿:創立30周年と中国と私 高山浩一

松本日中友好協会創立30周年誠におめでとうございます。
私は、1994年に中国旧満州への第九次公式訪中団に参加して以来、松本日中友好協会の活動に参加しています。ですので、30周年における半分ちょっとの歴史を共有させていただいています。
経済発展著しい中国は、その間も激動というくらい環境がかわってきていて、その友好関係のあり方も大きく対応が変化しています。
具体的にいえば、信州大学等は10年前までは、国費留学の学生が多かったのが、もうほとんど私費留学生です。つまり、中国の富裕層が激増しているということです。カラオケなど一緒に行くと、お小遣いは、こちらよりも持っている感じで驚きます。そして、中国の希望小学校に、バザーなどで集めたお金、文房具等をもって訪問した時代は終わり、グランドもパソコン環境も日本を上回る高学習環境の小中学校となってきています。最近、経済成長は鈍化しているというものの、少なくとも「不況」という文字は中国では感じられません。
中国の人は、大陸だけあって、おおらかです。島国の日本人のように細やかな気遣いはしない代わりに友人になると徹底して親密になります。よく、中国には「知人」という付き合い方がないといいます。近所の人で通りすがりによく知らない人でも挨拶する日本人の感性とは、まったく違います。友人かそうでないか、と割り切らないと人口が多すぎて付き合いきれないという事なのかもしれません。あと、ニュースで報じられる日中間の温度差。日本で騒ぐのは、日本のマスコミが意図的に反中ニュースを作り出しているのではないかと思うくらいのもので、ほとんどの中国人は日本人に対して好意的です。TVは、ニュースにしろ番組にしろ、その局の経営側のプロバガンダが多いのです。国と国の壁とその国の常識の違いはありますが、庶民感情はあまり変わらないものです。人口が多ければそれだけ極端な人物やニュースはあるものですが、あくまでニュースになるのは特殊なケースと思います。つまり、日本で小学生惨殺事件や、バスジャックなどが起きても日本人は、日本人らしい事件とは思いません。近所にそういう人はめったにいないからです。ところが、中国でそのようなことが起こったとすれば、中国に行ったことのない人は、中国人は怖いね、と恐れます。日常習慣も違うので、なおさら理解できないので国民性かと勘違いします。でも、あくまでニュースに出てくる事件は例外なのです。同じ地球の同胞です。あまり、人間の根本部分は変わりません。
日本人男性はYAP遺伝子という特殊な遺伝子を継承しているそうです。これはイエス・キリストをはじめ古代ユダヤ人と同じ系統で、日本人ならではの武士道精神と通じる根底に潜む遺伝子のようです。大陸浪人として活躍した川島浪速先生は中国人は、砂の民族でなかなか水を混ぜても固まらない、これを固めるには日本人的発想を混ぜないといけない、すなわち日中友好促進することで中国も国として発展できると養女川島芳子に教えています。昨年は、辛亥革命100年をお祝いしましたが、リーダーの孫文も、共産党革命の諸葛孔明といわれた周恩来も、日本での留学体験と友人とのつながりが革命の原動力になっていたといわれています。危機感いっぱいの日本経済を建て直し、21世紀を平和の時代としていくためには、中国と日本がしっかりと手をとり、協力していくことが鍵になると思います。
何回かの松本日中友好協会の訪中団のほか、日本青年交流代表団や長女を連れて行った上海万博見学など、これまでに何度も中国は訪問していますが、そのたびに新しい発見と出会いをさせていただいています。今後も、協会の活動を通じ、国境を越えて人々が理解しあえる機会作りの一助が出来れば幸いです。

2012年3月18日日曜日

寄稿:30周年記念訪中団 大地のロマン感動の旅 高山浩一


 松本日中友好協会創立30周年記念訪中団に参加し大地のロマンを満喫しました。この訪中は平成23年11月3日から7日まで「民間交流のルーツを訪ねて」をテーマに行われ、廊坊市と葫蘆島市、そして天津市を訪問しました。

 友好都市廊坊市は、5年ぶりの訪問でその発展ぶりは目を見張るものがありました。地方から移住する方でも北京市に住める人は制限されているので、隣の同市に住居を持ち北京に仕事に行く方も多いようです。「北京」を冠した大学名を持つ学校もたくさんあり学術都市でもあります。

 私は、長年の夢で人民服を着て中国を旅してみたいということがあり今回交流行事の際には、人民服を着用させていただきました。この年は辛亥革命100年を記念し、中国全土で革命家中山孫文をたたえる行事があったり、映画『1911』が世界で封切されています。孫文に学べと革命以来着用されていた人民服(中山服)を着ている人は、いまや皆無です。私も、変人と思われるのを覚悟で以前友人から頂いた人民服をもっていきましたが、廊坊市人民政府では王愛民市長が親指を立て、何度も「カッコいい!」と言っていただきました。虚飾を捨てた清貧な制服を国家全員で着用した時代は、貧富の差が小さく人間性で人は評価された時代かと思います。いまや私服の全盛。貧富の差が開き、大富豪と庶民との格差による暴動も各地で起きているようです。アメリカ合衆国のように1%の人が80%の財産を支配するというような国になってはおしまいです。今のうちに、制度を立て直し、格差是正し、平等な競争社会を健全に築いていってほしいものです。そのためには人民服を着た時代の「精神」を着用することが大事かと思います。
 さて、交流都市葫蘆島市は、松本市との友好都市提携を望み1992年の国宝松本城400年まつり(同時開催信州博覧会)に副市長が来松するなど、互いに民間交流を重ね、機運が盛り上がった1994年と、提携結果に対してのご報告をした1995年の2回訪問して以来16年半ぶりの訪問となります。松本市としてはより北京に近い都市ということで廊坊市を議会で選定し、その後友好都市提携の申し込みに中国にでかけ提携したことは官の判断として尊重しますし、廊坊市も素晴らしい都市です。それでも、これまでの民間交流の経緯をまったく白紙とされたことに対し、市民が反対集会を開いている中、強行議決されたことは官民のしこりを残しました。当時、有賀市長が1期目の出来事で、議会も前市長派も多く、議会も紛糾した中での採決をせざるを得ず、官民と日中の狭間で有賀市長自身も非常に心を痛められたのではないかと察します。以来、松本日中友好協会内部も廊坊派と葫蘆島派で二分化し、それぞれの都市への訪中団を組む組まないで、ギクシャクしていた事実も確かにあります。途中市長も変わったり、市と協会との関係もいろいろと複雑な面もありましたが、友好をうたっている協会だけに、当時の葫蘆島市長の涙ながらに宣言していただいた「形式ではない心と心の交流」を内外ともに地道に築いていくことがこれからも大事かと存じます。今回は、相澤会長と穂苅前会長のお二人が2都市を訪問し、この16年を総括する意味合いも兼ね有意義な訪中であったかと存じます。
 葫蘆島市は、世界遺産九門口を有する観光地。明代からの歴史を残す城郭都市興城も世界遺産候補として擁しています。海洋リゾート開発も進み、秦の始皇帝の離宮の再現も将来計画されています。16年前は、見渡す限り周りに何もなく万家賓館という市の招待所が1軒ぽつんと殺風景な中に佇んでいて、ここに宿泊するんですか、と心細かった地もいつの間にか大きな街になっていたりして驚いたものです。市庁舎前の大通り(一時は名誉なことに松本大街と地名になっていたこともあります)もホテルやビルが林立し街として大発展していて見違えました。
 17年前に初めて葫蘆島市第二実験(龍湾)小学校を訪れた際に、踊りの女の子を撮影した私の写真を今回の訪中団名簿の表紙に使っていただきました。小学校職員の方たち主催歓迎宴の中で、この生徒は今どこにいるんだろうという話になり、先生たちに追跡していただきました。すると今28歳のレデイとして成長し北京の雑誌記者として活躍されているということが分かり、なんと宴会の最中に電話でお話できました。中国というところは、人口は巨大ですが、友人同士のつながりがしっかりしているのでこんな芸当ができるんだなあと大変感動しました。
 どこまでもおおらかで優しい中国人民との今後の友好を大事にし、この廊坊市と葫蘆島市をはじめとして多くの中国の方々と心の友好を今後もしていけたら幸いです。
(高山浩一)


2012年3月17日土曜日

寄稿:三十年の歴史を大切に 藤沢光幸


「三十年の歴史を大切に」 
  松本日中友好協会 事務局長 藤沢光幸
松本日中友好協会は昨年五月九日に創立三十周年を迎えた。記念事業として、当日開催された定期大会にて三点セット、つまり一、中国駐日大使館への交流訪問、二、記念式典の開催、三、「民間交流のルーツを訪ねて」と位置付けて、友好都市廊坊市、当協会が二十八年をも交流を続けている葫蘆島市の訪問を計画、実行に移すことを確認した。九月に中国駐日大使館へ十五名の会員で訪問し、程永華駐日大使閣下に御会いし、「松柏長青」(日中友好事業が、蒼い松、松本市の松、緑の柏のようにいつまでも、長野県の長、続くように)と心温まる揮毫をちょうだいし昼食歓迎会を催していただき、交流を深めてまいりました。十月には駐日中国大使館張成慶参事官、廊坊市饒貴華副市長の御出席を賜わり盛大に記念式典を開催することができました。十一月には相澤孝夫会長を団長に総勢二十五名の団員で、廊坊市、葫蘆島市を訪問、熱烈な歓迎を受け先輩諸兄の熱い思いが、長年に渡り築き上げられてきたこの歴史ある松本日中友好協会の伝統をさらに認識した次第である。
「三十年の歴史を大切に」より一層の努力を払って行く所存であります。

2012年3月16日金曜日

投稿:中国旅の感想 相澤真弓





旅の紀行文をというので、感想文のような?ものを書きました。もしも文中、どなたかに失礼がありましたら、お許し下さいませ。

さて、私は、松本日中友好協会の旅へ、最初に参加したのは、2004年の「桂林~上海」でした。
それからは毎年のように、一般参加者として、主人に連れて行ってもらっております。毎回、廊坊市への表敬訪問が優先され、それからの観光ですので、今回も、それに葫蘆島市が加わり、いつもと同じパターンでした。
これまで、「西安~敦煌」・「北京~フフホト」・「黄山~景徳鎮」その他に、病院同士のお付き合いとして、石家荘市の河北医科大学、天津医科大学、天津市の泰達国際心血管病院、そして廊坊市人民医院を、何度か訪れています。今年だけで、中国訪問は、2度目でした。


今回、初めて葫蘆島市を訪れたのですが、接した人々の柔和なことに先ず驚きました。どの都市よりも、穏やかな優しい笑顔に出会いました。レストランのウエートレスもホテルマンも、小学校の先生方も生徒達も、皆、ニコっとしてくれました。こういう優しそうな人達の先代達なら、60年前の満州からの引き上げて来た大勢の日本人達にも、それなりの情を与えてくれたのでは?と想像しました。 当時のここの住民も、日本人引き上げ者も、食料は乏しかったでしょう。 2年間、着の身着のままで、これ以上、汚くはなれなかったと、宮尾登美子の自伝的小説に書かれていましたし、使役という労働で、わずかばかりの食料を手に入れ、不消化な高粱粥で、命を繋いだと・・。モラルなどなく、過酷状況にて、帰国船を待った、と、小説にありました。不勉強ながら、今回の旅が葫蘆島市であると聞いても、ピンと来ず、まさか、小説のその地(錦州)を訪れることになるとは、我ながら驚きました。
そして、この荒涼とした海岸沿いの石碑に、ここで約105万人の人達がどんなに望郷の念を持ったかと想像しました。運良く、生きて帰れた105万の人達の陰には、おそらくその倍以上の人達が、そこまで辿り着けずに亡くなっていることを思い、その頃の歴史を省みる思いでした。 105万人というと、松本市周辺の40万人の人口と比べてみれば、いかに大勢の人達の移動であったか、と思います。

今回のツアーにも、当時の辛酸を経験された方が数名、参加されており、どんな思いだったでしょうか? 主人と私との縁を繋いで下さった方も、ハルピンからの引き上げ者でした。あちらで女児を亡くして、晩年、墓を探しにハルピンへ行ったが、ついに探せなかったと、生前仰っていました。もう数年前に亡くなられてしまいましたので、いつどこから引き上げて来られたかは定かではありません。しかし、この海を渡ったことに、間違いありません。
立派な石碑を訪れ、写真に収め、帰国後、家族・友人・知人に話しても誰一人、そういう事実をもう知りません。私達の世代ですら、知ってる人達が少なくなってしまった戦後60年です。 こういうツアーで、日本政府の間違った
戦略の陰で、犠牲になった人達の苦難を強いられた場所を、見入る機会を得たことに意義を感じました。 歴史の一点に過ぎませんが、こういう場所を訪れることは、その歴史の前後も否応なしに想像することになります。
学校教育では、その頃のことを、取り上げていないようですので、知らない人達に、折に触れ、伝えて行きたいと思います。

また、一般参加者として、廊坊市と葫蘆島市とを、どちらを姉妹都市にするかという経緯については、知る由もありません。(一般市民に知ってる人はいませんので。)しかし、第2実験小学校での利発な生徒達のお出迎えは、とても感動的でした。廊坊市でも、小学校・中学校を訪問したことがありますが、生徒達のお出迎えは、ありませんでした。土曜日のお休みの日なのに、選ばれた子供達の、はつらつとした笑顔は嬉しいものでした。  (子供達は、万国共通、可愛いです。)歓迎のされ方が素晴らしかったのは、これまで根気良く、開智小学校との交流を重ねて来た成果であろうと、牛山さん達の努力を感じる所でした。


歴史的な興城・九門口・老龍頭等々、それらは素晴らしかったのですが、中国の発展には、毎回、どこかを訪れる度、その活力を感じます。マンションの建設ラッシュで、バブルのようですが、弾けないことを祈りつつ、世界の経済を牽引している13億人の中国人は、恐るべし!です。元気のない日本へ、エールを貰いたいものです。  

尚、皆さんと別行動になった帰りの天津行きの新幹線は、6人掛けコンパートメントの2等車だったのかと思います。 狭くて、足の置き場に困り、正直、かなり疲れを感じました。瀋陽からの現地人夫婦と友人の3人が、目の前に座り、「日本人ですか?」と声を掛けてくれました。昼ごはんには、カップ麺とゆで卵と真空パック入りのキムチを、食べていました。彼らが食べ終わる頃、私達も、負けずに、車内販売の駅弁に挑戦しました。その時は、彼らは遠慮をしてくれて、列車の廊下で、私達が食べ終わるのを待っていてくれました。こういう優しさにも、感動しました。駅弁は、う~~~ん、美味しくもなく、不味くもなく、まぁいっか、でした。コンビニの弁当のように、ご飯が1/3、3種類のおかずが入っていて、入れ物ごと、温めてあり、暖かいご飯には、有り難かったです。
駅弁には、カップスープが付いていて、車内にお湯が出るので、各自、カップにお湯を入れていました。トマトと卵とパクチ入りスープで、スープの方は、美味でした。 
駅弁の賞味期限がどうなってるのかは、見ない方が良さそうですが・・・。二華院さんの話では、全国どこも同じ駅弁だそうで、日本のように、ご当地グルメが無い、のは・・・・ちょっと残念でしょうか。

楽しい旅が出来ましたのは、皆さんと、通訳の二華院さんのお陰だったと、感謝しております。
主人の体調が良い時に、また皆さんとご一緒に、中国へ行きたいです。  
皆様、どうかお元気で!
(相澤真弓)

2012年3月15日木曜日

投稿:葫蘆島の印象 二華院好恵(中国名 趙好好)



葫蘆島という地名は小さい頃から知っていました。学校の授業で、葫蘆島は半島であり、中国東北地方にある港町の一つとして有名で、造船などの重工業が盛んな町だと習いました。また、「葫蘆」は瓢箪(ひょうたん)という意味で、葫蘆島は地形上、海に向かって長く突き出していて瓢箪に似ているから地名の由来となったと聞いております。
瓢箪は中国でとても縁起の良いもので、昔から中国の人々に親しまれてきました。『西遊記』や『三国志』など中国古典文学の中で瓢箪を持つ仙人の姿が多く登場されましたし、日本の「桃太郎」や「かぐや姫」のように、子どものいない夫婦の元に瓢箪から子どもが生まれ、子宝が授かるという昔話も数多くありました。また、昔の人は瓢箪を水やお酒の入れ物として使ったり、瓢箪を縦半分に切って枓(ひしゃく)としても使ったりしていました。
ですから、私は小さい頃から葫蘆島をその可愛らしい地名からよく覚えていましたし、瓢箪は神秘的で幸せを運ぶ宝物だというイメージを持っていました。
 日本に来て、葫蘆島は戦後の在留日本人が引き揚げられた港の一つであることを初めて聞きました。以前の可愛らしい地名という印象の上に、少し悲しいイメージが加わりました。今回は通訳として訪中団に同行させていただき、初めて自分の目で葫蘆島を見ることができました。
 葫蘆島では「日本僑俘遣返之地」の記念碑や、世界遺産である九門口長城などを見学し、目と心で歴史の重みを感じました。通訳で「65年前に、日本人残留婦女たち、老人たちが着のみ着のまま葫蘆島から助けられて日本へ帰還することができました」と話した時、私は「もし自分と子どもたちだったら、どうなっていたんだろう」とふと脳裏で当時の様子を想像してしまって、目頭が熱くなりました……
 葫蘆島の開発新区と呼ばれる「龍港区」には新しいマンションやビジネスビルが林立していて、ホテルやレストランも多く見かけました。訪問した小学校は敷地が広くて、緑化環境や屋外運動場などもきちんと整備されていて、子供たちの笑顔はもちろんですが、先生たちの教育熱心さにも大変印象的でした。さらに、校長先生や副校長先生たち(5名の副校長のうち3名が女性)の若さと内面からの自信による美しさと格好良さに感動しました。
 葫蘆島市市政府への表敬訪問の際にも、副市長をはじめとする市政府上層部の職員の中にも若い人が多くて(副市長はまだ40歳だと聞き)、驚きました。副市長の紹介によりますと、葫蘆島市は悠久な歴史を持ちながら、新しい町作りに力を入れており、特に市民にとって最も重要で身近な教育、医療、経済の発展を推進しているそうです。
今回の訪問で実際に見た葫蘆島は、古代中国の文化遺産をしっかりと守りながら、新しい町には建物も人も新しくて若くて綺麗で、自信満々と輝きが満ち溢れているという印象でした。昔話の中に描かれている瓢箪のように、これからの葫蘆島は「瓢箪を持つ人々」の智慧と能力によって町の宝物が益々多くなり、どんどん外へ、中国全土乃至全世界へ飛び出していくのではないかと期待を込めて思いました。
葫蘆島市政府からいただいた瓢箪の飾り物は、初めて手にした本物の瓢箪です。とても嬉しくて、自宅の玄関に飾り、我が家の幸福、日中友好と葫蘆島の発展を願いました。
二華院好恵
(中国名:趙好好)

2012年3月12日月曜日

イベント:3.10第35回日中友好スキーin車山高原スキー場

第35回日中友好スキー交流会が車山高原スキー場で開かれました。
100名近い参加者で盛り上がりました。

開会式です

記念撮影

スキー教室

留学生は転んでも転んでもチャレンジします

夕方から懇親会

歌をうたいます

華僑、大使館、留学生、帰国者と様々な交流が

友好交流は心の結びあい

ウララ~恒例のへんてこ踊り

冬の花火も良いですね

二次会

翌日もいい天気でした

トン汁の後、閉会式です

また来年もきてね

留学生が思い出を語ります

ホテル前で

再見!

チェーンを着脱します

2012年3月8日木曜日

ニュース考察:河村たかし市長の発言の心根が本当の問題





河村たかし名古屋市長の発言をめぐり、日中友好の交流に支障が出ています。発言の正否はともかく波紋を起こして、両国関係者に迷惑をかけていることをまず認め、謝罪すべきと思います。
そんなに殺せるはずはないとか、大虐殺が何人であったかどうかを検証すること自体もナンセンスではないかと思います。たとえ一人の命でも地球よりも重いのです。お隣の国の人々の感情をたった一言で平気で傷つけて、謝りもしない河村市長の心根自体が大虐殺するのと同じくらいひどいものであるし、そのような心がいつか戦争を引き起こす原因となると私は思います。
第二次世界大戦、日本軍の6割~7割は中国人と戦っていました。日本の主な侵攻の目的は、中国を支配下において燃料などエネルギー資源を得ることです。中国側はどうでしたでしょうか。日本を支配下に置くためではなく、自国を守るための抵抗、すなわち坑日です。この戦争において、攻撃と守り(抵抗)とがはっきりしていたのです。侵略と侵略ではないのです。日本側に言わせれば西欧列強と戦うための自衛の戦争だというかもしれません。でも、その理由で中国を攻めるとしたら、被害を受けるのは隣国です。南京の中国人はなんの被害も受けていないのでしょうか。たとえ、一人でも殺したとしたら、大変なことであると知るべきです。加害者側である以上は、いいわけは通用しないでしょう。しかも、日本は敗戦したのです。負けていながら謝らないというふてぶてしい態度はいかがなものでしょう。賠償を請求されているわけでもないのです。寛大な中国に対して速やかに謝罪して日中関係の良好な関係を修復していただきたいものです。「公人」と「私人」の発言の責任の違いが分かっていないようです。名古屋市を代表する立場であることを肝に銘じるべきです。どちらの国家にとっても、「公人」の無責任な発言で混乱するのは非常に迷惑な話です。河村市長の発言後、中国・南京で3月2日に予定されていたロサンゼルス五輪金メダリストの山下泰裕氏らを招いた柔道の国際交流や式典が中止になりました。また名古屋を拠点とするアイドルグループ「SKE48」の公演を目玉に、9日から南京市で開催予定だった日中共催の文化イベント「南京ジャパンウイーク」が延期になるなど、日中関係に様々な影響が出ているそうです。
減税推進で庶民の味方として名を上げたのはいいことですが、今回ばかりは河村市長の大きな失言であり、名を下げることになり誠に残念です。
(投稿文:高山) 

中国大使館が河村氏の面会を拒否、中国ネット上で喝采の声

サーチナ 3月7日(水)11時44分配信
名古屋の河村たかし市長の南京大虐殺を否定する発言をめぐり、中国の程永華大使は河村たかし市長との面会を拒否する意向を伝えた。中国メディアの環球時報が6日、同ニュースを報じると、記事には中国人ネットユーザーから喝采のコメントが殺到した。

南京大虐殺を否定する発言について、中国大使館側は「撤回しない限り、面会はできない」と伝えたが、河村市長は「発言は政府見解とほぼ同じ」との認識を示した。

中国大使館側の対応について、中国人ネットユーザーの大部分は中国大使館の決断を支持するものだった。あるユーザーは「われわれは日本が南京大虐殺の歴史を否定することを許してはならない。中国大使館が河村氏を拒絶したことを中国国民は擁護し支持する。日本製品をボイコットし、日本へ旅行に行くことをやめよう」と主張した。

また、別のユーザーは「河村市長が圧力を受けて、わざとらしく自分の間違いを認めたとしても絶対に許してはならない。彼は骨の髄まで間違った認識を持っているからだ」と非難した。

また河村市長の「政府見解とほぼ同じ」と述べた発言を受けて、あるユーザーは「日本政府も否定しているのかをはっきり問うべきだ」と述べ、また別のユーザーも「日本人はそんなことを言って恥ずかしくはないのか」と訴えた。(編集担当:及川源十郎)

以下、河村市長には、素晴らしい中国の人のブログを読んで頭を冷やしていただきたいと思います。

サーチチャイナより

【中国ブログ】南京人の告白、「私は日本人を恨んでいない」




大虐殺が起きたと言われる南京市。その南京市に住む中国人ブロガー气定神仙氏が「私は日本人を恨んでいない」とする文章を自らのブログに発表した。彼によると「恨むべきは日本人ではなく、戦争である」としている。以下は、その要約。

一人の南京人として日本人を恨むかと言えば、私はその資格を有する人間であろう。しかし、私は日本人を恨んではいないし、そうしたいとも思わない。私が日本人を恨めば、私はきっと自分自身をも恨むようになってしまうのではないだろうか。私はなぜ自分が日本人を恨んでいないのか、考えてみた。
まずは「宣伝」に対する反抗心理に基づくものである。南京大虐殺記念館で公開されている写真を見れば、遺恨の念をはじめとする様々な感情を抱くことは禁じえない。しかし、これらの感情は日本に対してではなく、戦争に対する感情であり、悲劇はあくまでも戦争が作り出したものだと感じるのだ。
中国国内における「宣伝」は目的をほぼ達成したといえるだろう。多くの中国人は骨髄に達すほどに日本人を恨んでいながらも、戦争そのものを恨むことはない。そればかりか彼らは戦争を好んでいるようにも見え、戦争が勃発することで日本人や台湾人、米国人、ひいては自分と意見を異とする同胞ですら殺そうと期待しているようにすら感じるのである。
私が日本を恨んでいないもう一つの原因は、率直に言えば私は日本の文化が好きだからに他ならない。多くの中国人が日本の漫画を愛読しているのではないだろうか?私の場合は漫画ではなく、日本の文学が好きなのだが、私は川端康成の「伊豆の踊り子」や「雪国」を読んだこともあるし、村上春樹の作品も大好きである。また、私が好きな中国人作家の郁達夫も日本文学の影響を受けているのだ。
もちろん私も日本文化には変態的で抑圧された面が存在することを知っている。はじめは驚き、嫌悪感も抱いたが、それだけで日本人の国民性を否定したり、攻撃したりはしない。なぜなら完全無欠な民族など存在しないからである。それに私は日本のアダルトビデオも好きだし、仮に極端な愛国主義者であっても日本のアダルトビデオの誘惑を拒絶することは難しいのではないだろうか?
最後に私が日本を恨んでいない三つ目の原因である。南京大虐殺は戦争が人を変えたからこそ起きた事件であり、中国人も被害者であるが日本人も被害者なのだ。血で血を洗い、日本を討伐すると騒ぎ立てるネットユーザーたちも戦争が勃発すれば同じように人間性を喪失するだろう。少なくとも、彼らが口に出している言葉を聞けば、彼らはすでに暴虐の極地に達していることを否定することは出来ない。
本当に同胞を愛し、本当の良識と正義感を持ち、本当に世の中の平穏を願うのであれば、恨むべきは政府であって日本人ではないはずである。過去、大躍進で死亡した3755万人の同胞を含め、戦争の無い平和な時代に数千万人もの中国人が自らの同胞に殺されていながらも、後悔や反省は未だに見られない。事実を追求するための努力ですら闇に葬られているのだ。
2009年、村上春樹がエルサレム文学賞を受賞した。彼が受賞の際に行ったスピーチにおいて、「我々は皆、多かれ少なかれ、卵である。我々は各々が壊れやすい殻の中に入った個性的な心を持っている。そして我々は、程度の差こそあれ、システムという名の高く、堅固な壁に直面している。システムは我々を守る存在として認識されているが、時に我々を抹殺し、さらに私たちに他者を冷酷かつ効果的、組織的に殺させる」と語った。
ここで少しでも良いから考えてみて欲しい。我々が持っているのは独特で生き生きとした心であり、体制ではない。体制から搾取されるようなことがあってはならないのである。なぜなら体制が我々を作ったのではなく、我々が体制を作ったのだから。(編集担当:畠山栄)
以上中国人ブロガー气定神仙氏のブログ要約でした。
日本のアダルトビデオの誘惑云々はこちらとしては恥ずかしい話ですが、ここに中国人の良心、本音をうかがえて温かい気持ちになれました。                          
 (高山)