2017年12月15日金曜日

12.10 西田理事長信州青年連続講座講演「私と中国、そして創価学会」

永遠なる友好交流を支えるのは

    民衆と民衆とを結ぶ「心の絆」と

        次世代を担う青年の育成である。(西田理事長) 


創価学会青年部「信州青年連続講座」講演 1210日(日曜日)
 1330~1420分 講演、1420~1430分 質疑応答
 会場 創価学会松本平和会館、 演題 「私と中国、そして創価学会」


本年は日中国交正常化45周年の佳節(かせつ)である。高崎辰之助氏や松村謙三氏、
岡崎嘉平太氏等の政財界人、また作家の有吉佐和子氏や井上靖氏、画家の
平山郁夫氏ら国交正常化に貢献した友好の先達は数多い、
では、なぜ今、池田大作氏か、それは第1に、生命の危険を顧みず、日中国交
正常化提言を発表した勇気。第2に、氏が会長を務めた創価学会という
民間団体が、長きに渡り日中友好を貫いてきたこと。第3に、新中国建国後の
歴代の国家指導者全員と親交を結んできたことがあげられる。
 「晴れの日も、雨にもかわらぬ、友誼かな」これは池田氏が初訪中の折、
1974530日~615日)中日友好協会の方に贈った句である。
政治や経済の面では、時に暗雲(あんうん)が垂れ込めることもあるかも知れない。
しかし、雨にも嵐にも、何があっても揺るがないのは、心の絆である。との
心情を読んでいる。
永遠なる友好交流を支えるのは、何よりも民衆と民衆とを結ぶ「心の絆」で
あることを、国交正常化45周年の佳節に、本日、御集りの創価学会青年諸君と
確認して、本題に入りたい。

 「私と中国」中国との関わりから話をさせて頂く、
 1939429日昭和天皇の誕生日に当時東京都千代田区神田神保町にある
事典出版で有名な三省堂で経営に携わっていた父 茂、母 都住の二男として
生まれる。節夫と書いて「さだお」と読む、天長節に誕生したことで大正天皇
の皇后、節子「さだこ」様にあやかって命名された。親しい関係者は「さだお」
と呼んでくれるが通称は「せつお」で通している。ナチスドイツ軍がポーラン
ドに侵攻始めた不穏な年でもあった。父は主に早稲田大学に留学してきた中
国・朝鮮の学生の世話を母と共に献身的に行っていた。多い時で20名余の学生
がおり、中国、朝鮮の異国語を耳にしながら「おにいちゃん」達に可愛がれて
遊んでもらい、甘えて育っていた。193777日中国、盧溝橋事変から端を
発し米、英、中、蘭、と戦闘状態入り、父は敵国人を世話したとの理由で世間
から孤立し心労が多く帰らぬ人となった。この時すでに長男昭夫は病で他界し
ている。父、兄、の分まで頑張り生き抜くのだと、子供心に決意したことが鮮
明に覚えている。5歳の時である。

中国、日本、朝鮮人はアジアの3兄弟である。長男は中国国民、二男は日本国
民、三男は朝鮮国民、「日本人たる前にアジア人たれ」世界には白、黒、赤、黄、
の肌の色の違う国民が存在しているが、白い肌の西洋列強に植民地にならなか
た国民は日本国だけである。当時明治の元勲の英知と努力により日本国は西
洋諸国の植民地化を免れたのである。故に中国、朝鮮、の「志」ある青年たち
はこぞって日本への留学を試みた。

高校時代に山中峯太郎の実録{アジアの曙}中国革命に参加し、孫文の参謀長
となり革命にぶつけた熱血の青春、中国大陸に若き夢と行動力を賭ける日本の
快男子の書物をひとときも離さず夢中で愛読したものである。     20

1959年~1963年明治大学商学部に通学した。第2外国語に中国語を選択した。
故に王育徳講師に出会った。台湾(中華民国)の留学生との交流が始まった。
その当時一つの中国、二つの中国、中華人民共和国、中華民国、一つの中国、
台湾人の台湾と意見が分かれていた。1947228日台湾で起こった大陸人
支配に対する台湾人の反乱事件に関連思想を持った留学生がほとんどであった。

19634月三井物産(株)入社、1964年公明党の結成のニュースを耳にした。
「反戦平和」と「日中友好」を打ち出した政党に興味を覚えた。

「そして創価学会」
〇池田大作 1928年(昭和3年)12日生、東京都大田区出身 辰年、
西田節夫1939年(昭和14年)429日生、東京都北区出身 卯年、11歳差
1960年(昭和35年) 池田氏創価学会第三代会長に就任 32  21
1964年公明党結成(1964年)に当たって、具体的な政策については特別な
注文をしていないが、唯一の例外として「中国との友好関係の確立」だけは、
揺るがぬ方針とすべきと、明言している。
公明党の母体である創価学会は池田先生のリーダーシップの基、「反戦平和」
「日中友好」をはっきり打ち出している。         36歳  25
1968年(昭和43年)9月、東京日大講堂での第11回学生部総会で日中国交
正常化を提言、来年2018年で50年、提言から半世紀経過する。    40
その時の青年部長が秋谷栄之助元会長、私は三井物産(株)商社マン、 29

1969年(昭和44年)6月、小説「人間革命」第5巻 「戦争と講和」の章
で中国との「平和友好条約」早期締結を主張する。   41歳 30歳長女誕生、

1972年(昭和47年)9月、日中共同声明調印、日中国交正常化となる。
田中内閣が成立して、わずか2カ月後の事である。      42  33

1974年(昭和49年)5月、池田大作会長初の中国訪問、両国間に「金の橋」
をかけようと声高らかに宣言された。中国深圳駅に入境、中日友好協会の葉啓滽
(はけいよう)先生、殷連玉女士が出迎え、殷女士は小説「人間革命」のテーマ
を知っていますと言って「一人の人間における偉大な人間革命は~」とすらすら
と暗唱して見せた。                    46歳 35
中日友好協会 廖承志(りょうしょうし)会長、孫平化秘書長、金蘇城理事
(きんそじょう)と面談、
「創価学会の強さは、その人民を組織し、人民の連帯を広げ、一人ひとりの
力を引き出してきたことにある。そして、それぞれが人間として自立し、社
会建設の主体者となって正義を具現してきたのだ。そこに、周恩来総理も着目し、
深い信頼を寄せてくれていたのである。」
中日友好協会の金蘇城理事らの案内で万里の長城を歩いた。
「私は小さい時から、ここに立つことが夢でした。今日は歴史的な日になり
ました。私の師匠である戸田城聖先生は、生前、よく私に、いつか二人で中国に行き、万里の長城に立ってみたいなと言われました。今日は先生と一緒に立っている心境です。戸田先生は、「人材の城をもって、民衆の幸福を築くのだ」と、よく話されておりました。
李先念副総理と人民大会堂で会見する。(通訳は唐家璇現中日友好協会会長)
(中国人民対外友好協会李小林会長の実父である)

1974年(昭和49年)125日、第2次訪中で周総理と歴史的会見が実現する。
病院で外国の賓客と会った最後の一人である。            35
 周恩来総理76歳、池田会長46歳  北京305医院
1975年(昭和50年)4月、創価大学に第1期中国人国費留学生6人が入学、
程永華駐日特命全権大使、許金平先生等、国交正常化後、中国政府が初めて派遣
した国費留学生である。

同年11月に「周桜」を記念植樹する。            47  36
197412月の池田・周総理との記念し、日中友好の「誓」として、中国留学
生の手で植樹された。その意義を刻んだ石碑は中国の方向を向いている。

 197618日 周恩来総理逝去             48  37
1977年(昭和52年)723日会社創立、独立する。    49  38
1978年(昭和53年)「日中平和友好条約」締結する。   50  39
1979年(昭和54年)「周夫婦桜」記念植樹する。
1981年(昭和56年)329日金蘇城参事官、南蓮荷参事官、藩淵清一等書
記官、来訪、松本日中友好協会設立発起人会、59日設立総会を得て創立、
「日中両国人民世世代代友好下去」 20165月に創立35周年を迎えた。
マークに松本城のデザインを取り入れたのは金蘇城参事官の創価学会の「人材
の城をもって、民衆の幸福を築くのだ」池田氏初訪中万里の長城での発言であ
り金先生の壱字城で有る。まさに日中友好の「金の糸」で結ばれている。
2001124日松本日中友好協会創立20周年を祝し遼寧省葫蘆島市張意強
副市長一行19名が来松、創価学会松本平和会館を訪問大歓迎会が催される。
2003年(平成15年)9月創価学会任用試験を受験合格する。
 「彼を知り己を知れば百戦して危うからず」
2014年(平成26年)101日 殷連玉女士、池田SGI会長初訪中から40
周年、特別記念講演会を松本平和会館で盛大に歓迎、開催された。
2016年(平成28年)410日創価大学第37回「周桜」観桜会に招待出席、
中国駐日大使館郭燕公使同席する。
2017年(平成29年)214日 殷連玉女士、来松、創価学会女性部と懇談、
2017年(平成29年)1123日 殷連玉女士、来県創価学会長野支部訪問、
20171018日開催第19回党大会に於いて習近平国家主席は「青年が興
れば(おこれば)国は興り(おこり)青年が強くなれば国も強くなる。青年は理想を持ち、本領を発揮して活躍すれば国に希望が出る。」と話している。3時間余の演説、32000字を超す長大論文より抜粋する。
〇周総理との会見から43年、先月(11月)学会青年部の「日中友好青年交流
団」が、中華全国青年連合会の招聘で中国各地を訪れ、熱烈な歓迎を受けた。
交流の原点は、池田先生と周恩来総理の友情にある。
「創価学会青年部」と「中華全国青年連合会」との交流は、1985年以来、毎年続いており、池田氏が創立した創価大学、創価学園でも、それぞれのレベルでの交流が活発である。
池田氏は、青少年たちへの指導・激励に、よく中国の古典や格言を用いる。
周恩来総理や魯迅(ろじん)の言葉を引用することも多い。
 魯迅は終生、青年を愛し、青年の育成に心血をそそいだ。
112日公明党山口那津男代表は北京市内の人民大会堂で中国高官と会談

〇最後に一言、「池田提言」で希望のビジョンとして述べられた。次の言葉を投
影させた姿ではないかと思えてならない。池田先生曰く、「やがて諸君が社会の
中核となったときには、日本の青年も中国の青年も共に手を取り合い、明るい
世界の建設に笑みを交わしながら働いていけるようでなくてはならない。この
日本、中国を軸として、アジアのあらゆる民衆が互いに助け合い、今日アジア
をおおう戦争の残虐と貧困の暗雲が吹き払われ、希望と幸せの陽光が、燦々(さ
んさん)と降り注ぐ時代である」 「ご静聴感謝申し上げます。」

                       松本日中友好協会
                         理事長 西田節夫
質疑応答

質問1、日中友好交流に携わっていくに、今、何をどのようにしたら良いのか、
答え、 両国間での「違いを認識する」(政治体制、生活慣習等)度量と
  「互いに出来ることを増やしていく」積極性、更に「お互いが必要とされる存在になる」ことの必要性を認識して顔の見える交流に心血を注いで欲しい。

質問2、周恩来総理と池田先生との共通点について、
答え、イ、100年先のビジョンを持ち合わせていること、
  ロ、次世代の青年の教育と育成が両国の友好促進と世界平和に通じること、
  ハ、民間交流、地方交流、更に官民一体化が両国交流促進に必要であることの認識、(創価学会の民衆の力、中国人民の力、反戦平和の立位置)
  ホ、「小異を捨てて大同につく」懐の広い人間性が共存していること、

質問3、経済的な交流の促進と経済重視指導的役割について、
答え、イ、政治的、経済的に他国より優位に立って行く場合、過去においての覇権主義はあり得ない、情報の組み立てと判断力、日本人の培ったモチベーションの活用である。と瀬島龍三伊藤忠商事会長から教えられた。
   ロ、恒産なくして恒心なし、言い換えれば「衣食足りて礼節をしる」である。産がなければ活動は皆無である。産を得るため時の指導者はあらゆる知恵を絞って対応せざるを得ない。

質問4、創価学会の発展に害する者とは、

   聖教新聞で拝見したことがある。学会の進歩発展に最も害する者は青年の過失ではなくて老人の跳梁(ちょうりょう)跋扈(ばっこ)である。      以上